さりげなく、なにげなく、一色いろはは未来を紡ぐ。

中庭の片隅に、桜の花びらがわだかまっていた。

ちょうど四月も折り返しを過ぎたところだ。

時の移ろいに合わせて、木漏れ日の色も変わりつつある。そよと吹く薫風に揺られるたび、目映いほどに鮮やかな緑が過ぎ行く季節に手を振っていた。

既に葉桜となった枝先を眺めながら、俺は自販機のボタンを押す。

わざわざ手元に視線をやらずとも、指先は自然といつもと同じ銘柄の缶コーヒーに伸びている。がしゃりと落ちたそれを手に、ふらりと、校舎中庭のベンチへと向かった。

授業と授業の隙間時間、わずか10分の休憩のために、わざわざ外へ出てくる奴はいない。

今、この瞬間、中庭は俺だけのもの、きが八幡はちまんのプライベート空間だ。俺だけのものすぎて、下手すると、比企谷八幡名義で固定資産税が課税されるレベル。ほんともう税金高すぎだろ、マジで……。せめて消費税下げてくれたりしないんですかね?

などと、政治経済への興味関心をアピールすることでゆくゆくは千葉県知事の座を狙いながら、俺はマッ缶をぎゅっと握りしめる。

人生は苦いから、コーヒーくらいは甘くていい……。

この後思うさま自分を甘やかせる喜びに震え、ベンチの中央にでんと鎮座ましましひとり悦に入っていると、きゃいきゃいはしゃぐ声が近づいてきた。

どうやら誰かが俺のプライベート空間に踏み入ってきたらしい。おいマジかよ誰だよ固定資産税払えよと、いぶかるようにそちらを見やる。

視線の先には、渡り廊下を歩く数人の女子生徒。移動教室の帰りだろうか、大変賑々にぎにぎしく雑談しながら本校舎の方へと戻っていく。

その数人の中で、亜麻色の髪がふと目を引いた。

ふわっとした髪はキューティクルも相まって日差しを浴びてきらきらと輝き、くりっとした大きな瞳は小動物めいて愛らしい。制服もちょっぴりとだけ着崩しており、たるっと余らせたカーディガンの袖口を控えめに握りこんだその仕草は見慣れていても、可愛らしいと思ってしまう。

まぁ、仕草に限らず、そもそもが可愛らしいのだ。

一色いっしきいろはという女の子は。

部室や生徒会室でのぞんざいな態度に見慣れてしまっているから、ついつい忘れがちだが、こうしてお友達と一緒にいる姿を見ると、改めてそう思う。

存外、新しいクラスではうまくやっているようだ。よかったよかった……。

などと、親戚おじさん目線でいたせいか、俺はまじまじと見すぎてしまっていたらしい。向こうも俺の存在に気づいて、ふと目が合ってしまった。

一色が無言のままに、「あ」と口を開く。いや、もしかしたら「げ」かもしれない。

けれど、表情に驚きがにじんだのはその一瞬だけで、一色はすぐに取り繕うようにほのかに笑むと、指先がわずかにのぞく程度に袖を余らせたカーディガンでもって、胸の前で小さく手を振ってきた。

こっそりと、周りの人に見られないようにと、秘密めかしたその手ぶりと微笑みは、逢引あいびきのサインみたいで無性に気恥ずかしい。

どんなリアクションを返すべきか判じかね、うなずきとも会釈ともつかない程度の目礼を返すことくらいしかできない。へどもどもしているうちに、一色は友人たちとの雑談に戻ってしまい、そのまま本校舎へと消えていった。

それを見送ってから、俺は重く湿ったため息を吐いて、空を仰ぐ。

今の、どうやって反応すべきだった? なんか無視したみたいになってない? 手を振り返すべきだった? いや、それも気持ち悪いな。会釈? 会釈か? 一色ひとりだったらそれもありだが、周りに他の人がいるとなると、ちょっと行動は変わってくる。それとも欠伸したていで見てない振り決め込むべきだった? いずれにしても、意識しちゃってるのがもう気持ち悪いですよね! だめだ! もう最初から詰んでた!

再び俺のプライベート空間へと変わった中庭で、まぶたを閉じて、一人反省会することしきり。

口をつけることなく、握ったままのマッ缶も心なしか温んできたころ、ざりっと砂を踏む音がした。

「せーんぱいっ」

甘やかな声音で軽やかに声を掛けられ、そちらに顔を向ける。

瞬間、ひやりとした柔らかな感触が頬にあたった。驚きに身を仰け反らせると、先ほど通り過ぎたはずの一色いろはがすぐそばに立っていた。『い・ろ・は・す』のペットボトルを手に、にこりといたずらっぽく微笑む。ははぁん、さてはこいつキャンペーンガールだな? それくらい可愛いんですけど、なにこれ可愛い。

「お、おう……。なに、どしたの」

動揺を抑えつつ、教室戻ったんじゃないのかと言外に問うた。すると、一色はすとんとベンチに腰を下ろして、あっけらかんと言った。

「生徒会室寄るっていって抜けてきちゃいました」

「ほーん……」

言う割りに、一色が生徒会室へ向かう素振りはない。代わりに、手にしていたペットボトルをおでこにあてると、ふーっと疲れたようなため息を吐いた。

「お手洗いとか飲み物買うとか言うと、みんなわらわらついてきちゃうんですよねー」

言いながら、一色は手にしていたペットボトルをふりふりする。どうやらその『い・ろ・は・す』はお友達と別れる口実に買ったものらしい。

「まぁ、新学期は特にそういうもんかもな。何かと集団行動することになるし」

ほーんと俺が相槌あいづちを打っていると、一色もまたうんと頷き、そのついでに拳一つ分だけこちらに詰めてくる。

「ですねー。だから、生徒会って言えると、便利なんですよ、……こういう時は」

「確かにそういう時には使える言い訳だな、わかるわかる」

この学校において、生徒会長という属性は一色いろはだけが持ちうるものだ。したがって、一人でゆっくりしたいときにはそれを持ち出せばいい。なるほど便利便利。

うんうん頷いていると、一色はしらっとした目で俺を見ていた。

「ほんとにわかってます?」

「わかるわかる。外打ち合わせの帰りとか、初対面の人と方向が一緒だったりすると、あまりの気まずさに『あ、この後別件あるんで、ここで……』とか大嘘おおうそぶっこいてきにかかるのと同じだな」

「はぁ、全然違いますけど……」

心底あきれ切った様子で、一色は薄いため息を吐く。胸元に軽く手を添えると少し体を傾けて、俺の顔を覗き込んできた。

「そうじゃなくて……」

一色はそこで言葉を区切ると、内緒話のように俺の耳元に唇を寄せて、小さな声でささやいた。

「……“こういう時”です」

他に誰がいるわけでもないのに、ことさら秘密めかした可憐かれんな声音はほんの一瞬、耳朶じだあまむ。

「な、なるほどね、それな。こういう時な。はい、で、結局何、どしたの、なんか用だった?」

フローラルな香りとこそばゆさから逃げるように俺が上半身を仰け反らせながら早口で適当な誤魔化しを並べ立てると、一色もぱっと離れた。

「別に用はないですけど……。ていうか、先輩がこっち見てたんじゃないですか。だから、来いってことかと。手振っても無視するし」

「あそこでなんかリアクションするの無理だろ……。変に反応したところ見られて、友達にうわさとかされると恥ずかしいし……」

「は?」

往年の名作ゲームヒロイン張りの可愛らしい照れくさはにかむムーブを決めたというのに、一色は真顔だった。うーん、世代が違うから通じないかぁー。先輩友達いないじゃないですかーみたいな返しもなく、マジ真顔。

いつだかもこんなやりとりをしたなーと不意に懐かしくなり、俺が笑み含みの吐息を漏らすと、一方の一色は呆れたようなため息を吐いた。

「まぁ、でもいますよね。用がないとしゃべらない男子。逆に言うと、話しかけるためだけに無理やり用件作って何かと絡んでこようとする男子」

「おいやめろ、きっかけがあれば頑張れる奴だっているんだやめろ」

止めようとしたものの、一色は聞いちゃいない。

「テストの範囲とかわざわざわたしに聞かなくてもそこらの友達に聞けばいいのにって思ってると、そこから無限にLINE続けようとするんで、即寝たフリしちゃいますよねー?」

「やめろやめろやめて。俺をはじめとする中高生男子の柔らかい場所を突くのはやめて。小さなアクションが世界を変えることだってあるんだ……、俺はそう信じている……」

何事もそうだ。毎日のツイストで世界は変えられる。世界を変えさせておくれよ……。ミラクルをキミとおこしたいんです……。

はるか遠くを眺めながら心中ぶつくさ祈りの言葉を紡ぐ俺を、一色はしらーっとした目つきで見ていたが、そのうち仕方ないなぁと苦笑した。

「教室でもそんな感じなんですか? クラス替えしたばっかりなのに」

「まぁな。というか、俺に限らずだが、そもそも三年になると、ある程度は見知った連中だから、積極的に新しい人間関係構築しようって雰囲気にはならないんだ。だから特に人と喋る必要がない」

あくまで傍で見ている感想に過ぎないが、俺の所見を述べると、一色はふむふむ頷く。

「なるほど……。まあ、もう三年ですもんね」

「そうなんだよ、三年なんだよ。……だから、今度は別の問題が起こってくる」

いやに重々しい口調で言い添えると、一色がはてと小首を傾げた。こてんと首を曲げると、亜麻色の髪がさらと流れて、白い喉元へとかかる。色付きリップが塗られた唇に触れた髪の毛を指先ですくい上げながら、一色は無言で言葉の続きを問うてきた。

俺はおもむろに腕を組むと、いやに重っ苦しい声で続ける。

「なんでもかんでも、『高校最後の』って言いだす奴がいて、それがちょっと鬱陶しい……」

この手の言説の厄介なところは必ずしも間違っていない点だ。確かに、今この瞬間でさえ、俺にとっては高校生活最後のナニカだと言える。

何かっちゃあ『高校最後の』という枕詞をつけたがる気持ちもわからなくはないが、そんなこと言ってたら、毎日が記念日になってしまう。さてはたわらだなオメー。

我知らず、声音にはうんざりしたニュアンスがかなり強く滲んでいたようだ。聞いている一色も頬を引きつらせている。

「あー、付き合いたてカップルのなんとか記念みたいな……」

「そうそう」

「確かにちょっと鬱陶しいですね……。そんなのSNSに投稿されても、『ちっうっせーなそんなの知らねーよ』って思いながらイイネ押すしかないですもんね〜」

「そ、そうそう……」

順調に相槌を打っていたはずの俺だが、不意に詰まってしまった。そっか、いろはすは内心ではイヤイヤながらも、ちゃんとイイネ!押してくれる子なんだな。優しいなぁ……。記念日云々うんぬんについてSNSに投稿する予定はまったくないが、俺も人を嫌な気持ちにさせないように気を付けようと思いました。

しかし、俺とて人の子。記念日を大事にする感覚はわからんでもない。

誰にだって一つや二つ、覚えておきたい日付というのがあるものだ。とるにたらない些細ささいな一日も誰かにとってはかけがえのないアニバーサリーであったりする。

たとえば、誕生日なんてその最たるものだ。

思い至って、俺は傍ら、ベンチに置きっぱなしにしていたマッ缶を手に取り、すっと一色の方へ差し出した。

「これ飲むか?」

「は? いや、いきなり飲みかけ渡すとか犯罪そのものですけど」

一色はすすすすっとベンチの端まで滑り下がり、両手を胸の前に掲げて完全防御の姿勢に入っている。

「まだ飲んでないし……。見て? このまっさらなタブ。綺麗きれいだろ? これ未開封なんだぜ?」

証拠とばかりに缶をぶんぶん振って身の潔白をアピールした。すると、一色も納得したのか、じりじりと元居た位置へと戻ってくる。そして、おっかなびっくりで俺からマッ缶を受け取ろうと手を伸ばした。

「はぁ、まぁ、どうも……。じゃあ、一応いただきます。飲むかどうかはちょっと自信ないんですけど……」

めちゃめちゃ正直だなこの子……。しかし、渋々ながらも人の厚意を無碍むげにはしまいとするとこ、いいと思う。

「誕生日、おめでとさん」

俺は苦笑交じりにそう言って、一色の手にマッ缶を握らせた。

だが、一色からの応答はない。彼女は両手で押し包むようにして持ったマッ缶を呆然ぼうぜんと見つめていた。

「…………」

ほうけた表情でぱちくり瞬き、声のない吐息だけが漏れ聞こえてくる。

どした? と視線で問うと、一色ははっと我に返り、前髪をせっせといじり始めた。

「……お、覚えてたんですね。何も言わないからてっきり忘れてるのかと思ってました」

「いや、言うタイミングがなかったからな……」

一色の姿を視認した時は距離が離れすぎていたし、言葉を交わす段に至ってはびっくりペットボトル攻撃でそれどころじゃなかったし……。

そも、一色いろはの誕生日は忘れようがない。以前からことあるごとに謎アピールをされていたし、何より、ここ数日、俺が属する奉仕部では、その話題でもちきりだった。なんでも今日の放課後、部員そろってサプライズでお祝いするらしい。

だが、いかにサプライズを仕込んでいるとはいえ、顔を合わせた時でさえ、誕生日関連の話題を口にしないのも不自然に過ぎる。俺クラスの敏感選手権王者ともなると、『妙だな……。俺の誕生日なのに、誰もおめでとうって言わない……。ははぁん、さてはこれサプライズの予定があるな?』と即座に看破した末、そのまま何事もなく一日を終えたこともあるのだ。

ここで先んじてお祝いを言っておけば、一色の意識をサプライズへの期待や疑念から逸らすことができる。こうすれば、サプライズの効果は倍増するって寸法よ。我ながられするような名采配……。

などと、ひとり悦に入っていると、くいくいっと袖を引かれた。なんぞ? と見やれば、一色が唇をとがらせ、そっぽを向いている。

「缶コーヒー一本で済むようなお手軽な子じゃないですよ、わたし」

ねたような口調で、一色はぽしょぽしょとつぶやいた。

そんなことはわかってる。一応俺は俺でプレゼントを用意していてだな……と、言いたくなるのをぐっと飲み込む。それは放課後のサプライズに取っておかねば。

安い女ではないと言いつつも、一色がマッ缶を突き返してくるような素振りはなく、マッ缶はブレザーのポケットにしまわれていた。

代わりにすっと別の物が差し出される。

「……あの、これ、あげます」

「あ、それはどうも」

すいませんねいただいちゃって……と、俺が反射的に会釈して受け取ったのは、先ほどから一色が手にしていた『い・ろ・は・す』である。

「……え、なんで?」

手元から視線を上げて、一色を見る。相変わらず一色はそっぽを向いたままだったが、俺の問いかけには存外素直に答えてくれた。

「交換です……。コーヒーと、交換」

なるほど、わからん。なんでこの子、『い・ろ・は・す』くれたの? 俺がマッ缶あげたのは誕生日だからという理由がある。しかし、俺がものをいただく理由がとんと思いつかない。

「ほう……」

さてはわらしべ長者かな? と、手元の『い・ろ・は・す』をしげしげ眺めて、首を捻っていると、んんんっ! と一色が大きく咳払せきばらいした。

そして、びしっと俺を指さすと、赤い頬を誤魔化すようにぷくっと膨らませていた。

「……交換ですからね! だから、さっきのプレゼントは無効です!」

「えぇ……」

プレゼントってそういうルールあったっけ? 贈り返せばチャラみたいなこと? 戸惑う俺をよそに、一色はさくさく話を進めていた。

「なので、プレゼントはまた今度ということで……。今週末とかどうですか? わたし、暇じゃないですかー?」

「え、あ、いや、プレゼントは一応別の用意を検討していてだな……」

なんなら放課後に渡すつもりなんだけど……と言いたいのだが、サプライズであるがゆえにはっきりとは言えないジレンマ!

ぐぬぬっと言葉に詰まっていると、それをどう捉えたのか、一色はにっこり笑って、ベンチから身を乗り出した。

「プレゼントは言い訳ですよ」

俺の肩にそっと手を乗せると、もう片方の手は口元に。そして甘くとろけるような響きの声音でもって、一色いろはは唇寄せてささやいた。

何に対する言い訳だと、うすら寒いすっとぼけで問い返すよりその先に、一色はぱっと身を引き、なにもなかったようににっこり微笑む。

俺のため息は始業を知らせるチャイムに紛れ、それと同時に一色が立ち上がった。その勢いのまま、きびすを返して数歩行き、ひらとスカートなびかせ振り返る。

「じゃあ、週末、楽しみにしてますねー!」

こちらの返事など聞くまでもないとばかりに、ひらりひら手を振ってそう言うと、一色は校舎へ向かって足を急がせた。

「お、おう……」

俺は届くはずもないと知りながら、遠ざかる背に向けて、戸惑い交じりの頷きを返す他ない。

なし崩しに週末の予定が決められていた。

いや、さすがはいろはす。

買ったペットボトルを100%リサイクルして、さらに先々につなげていくとは恐れ入る。掌で転がされるどころかツイストさせられちゃってるよ……。

いつもと同じやり取りは、もう何度繰り返されたかわからない。以前と同じやり口のはずが、さらに進歩している感すらある。前よりもっとあざとく可愛くスマートに。

さりげなくてなにげない、いつも通りの積み重ね。そのワンアクションが確かに心を揺らして、これから先の未来を紡いでいく。

だから、やっぱり。

いろはす、最高なんだよなぁ……。